熊野の森では1955年ごろから始まる植林政策(拡大造林)の前後で森林の様相は大きく変わりました。
1 拡大造林前
1950年代より前の、照葉樹林に覆われていた熊野の森は、今ではわずかに残っているだけです。かつての森の姿とは……。
【2008年に当会発刊の講演録「明日なき森」(新評論社)より要約】
・ 高野山や護摩壇山には3000haから5000haの膨大な原生林があった。
・ 1950年ごろの大塔山(1122m)は、どこをどう歩いたか分からないほどの深い森で、樹齢250年以上の大木がいっぱいあった。
・ 熊野の生物相は特異で、北海道と沖縄という寒、暖、両地域の昆虫が一緒におり、次々と新しい種が見つかる。
・ 大塔山には、常識では考えられない植物や虫が見られ、世界で初めて見つかった昆虫は50種を超える。標高2600mくらいの中央アルプスで知られるヒメイワカガミがたくさんあった。
・ ダムが出来る以前の古座川流域では、1000m近い山の上に群落をつくるホンシャクナゲが南に行くほど低い標高でも育ち、下流域では10mのところに咲いていた。
・ 日置川上流の谷にはすごい原生林があった。直径1mを超すようなシイ、タブノキ、モミ、ツガがうっそうと繁っていた。昔、川はシイやカシの深い森林の中を流れ、水温があまり上がらなかったので、流域には標高1000mを超すところに育つような植物もあった。
・ 豊富な水を湛えたのは、水を育む自然林が、源流の広い範囲に広がっていたから。
熊野の森を形成していたのは、イチイガシやウバメガシなどのカシ類を中心にタブノキなど四季を通じて緑なす照葉樹で、多様性豊かな森の様相が窺えます。
2 植林政策(拡大造林)
戦後の木材需要にこたえるために1955年ごろから始まる植林政策で、照葉樹は伐採されスギやヒノキの植林が進められました。
戦後間もない時代に1本の植え付けで百円ともいわれる補助金が支払われたようで、経済政策として有効だったことは否定できません。半面、弊害もありました。植えれば植えるほど収入になるので植林はどんどん進んで行きました。その結果、植林には不適地とされる南面の山や谷合、ところによっては崖地までもが対象になりました。こうして豊かであった照葉樹の森は、拡大造林の進行とともに姿を消していきました。
3 拡大造林後
現在、植林地は山の7、8割にも達するといわれます。また、この時植えられたスギやヒノキはどうなったのか。しっかり管理されている山はもちろん存在します。しかし、長く続く木材不況や過疎化による人手不足で、管理の行き届かない山もたくさんあります。スギやヒノキは、枝打ちもされぬまま放置されています。線香が立っているようにも見えることから「線香林」と呼ばれることもあります。
現在、山(森)から海に至る水の流れが変わってきました。大雨が降ると冷濁水が沿岸域を濁し、晴天が続くと水量が極端に低下して一面が河原となる現象、瀬切れを起こすこともあります。
スギやヒノキの森には野生動物の餌となるドングリ等がありません。このため、シカやイノシシ、サルなどの野生動物がひんぱんに人里へ出没し、農作物を荒らして被害をもたらすようになりました。山里の農家は、その対策に頭を悩ませていますが、有効な手段はなかなか見つかりません。また、食べ物を求めるシカなどの動物が、残された自然の林にも出没、獣害を起こすこともあります。また、照葉樹の森の消失は、花や蜜を求める昆虫や野鳥の減少にもつながります。
近年温暖化の影響で1時間に100mm以上という豪雨が頻発するようになり、山の崩壊、土砂崩れを招いたというニュースも増えてきました。スギやヒノキの植林地で発生するものが多いように思われます。スギやヒノキは、高く伸びるため木を支えるのに根が横に広がり、根がからみあって板状になる傾向があります。豪雨時に、その“板”の下に水が入り込むと、根ごと崩壊する危険性が指摘されています。